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インドネシア独立後にスカルノ大統領が訪れた青松寺に行ってみました

昨日、ジャカルタでもらったトラジャコーヒーを調べているなかで知った日本とインドネシアの歴史。
トラジャコーヒーについては、第二次世界大戦後に衰退したものをキーコーヒーが1970年から復活に取り組み、1978年に復活させたと知りました。

今日は、そんなインドネシアが第二次世界大戦後にインドネシア共和国して独立した経緯を調べているなかで、東京都港区の青松寺というところにインドネシアのスカルノ大統領(デヴィ夫人の元旦那さんですね)が訪れたことで建碑された石碑があると知り、行ってきたのでご紹介したいと思います。

簡単に復習:インドネシアのオランダ統治から独立までの歴史

インドネシアは300年もの間オランダに植民地として統治され、その後日本の統治(3年ほど)を経て1950年に独立を達成しましたが、簡単に箇条書きにまとめると以下のような歴史になります。

・1602年にオランダ東インド会社がジャワ島に進出したころから、オランダによる植民地化が始まった。
・統治というのは、オランダ東インド会社(VOC)による植民地化ということ。 統治は300年以上続いた。
 (植民地化の酷さについてはここでは触れない)
・植民地化されたオランダ領東インドで、コーヒーなど農産物が栽培されることで、トラジャコーヒーもその地位が確立された。
・1945年の終戦後、インドネシア独立戦争を経て1950年にインドネシア共和国が誕生。ここでコーヒー栽培も衰退。
・1970年に日本のキーコーヒーが復活を進め、1978年にやっと「トアルコトラジャ・コーヒー」が販売開始

特に、第二次世界大戦からインドネシア共和国独立までの出来事として、
・1942年にスマトラ島・ジャワ島に日本軍が進攻し、軟禁されていたスカルノハッタなどの民族主義運動の活動家を解放 。
・1945年8月15日の終戦から2日後の8月17日にインドネシア独立宣言
・インドネシア独立を許さず再植民地化を狙うオランダ軍、イギリス軍との戦闘が1949年まで続く。
 (それにしてもこの1948年、1949年のオランダは相当醜いことをやっているのが残っています。植民地時代からそうだったのでしょう)
・インドネシア側に元日本軍の義勇兵3,000人も参加。日本人の死者は1,000名以上に及んだ。
・1950年にインドネシア共和国の樹立が宣言された。

という歴史があったということです。
こういう歴史から、インドネシアは親日という話を聞いて納得できますし、独立後のスカルノ大統領の青松寺(料亭・醍醐)での逸話を知って行ってみたくなりました。

スカルノ大統領が忘れなかった2人の日本人と青松寺

このインドネシアの独立戦争に元日本軍の義勇兵が約3,000人も参加し、1947年頃までインドネシア独立のために戦ったことをスカルノ大統領はずっと覚えており、中でも亡くなった2人の日本人の「死を思い出すたびに涙を流していた」とのこと。

以下、このことを書かれた方のブログがありましたので引用します。

大東亜戦争が始まり市来氏は陸軍の宣伝班員としてジャワ派遣軍に加わりました。吉住氏は、1944年から海軍武官府で民族主義運動工作に従事されます。日本の敗戦のちもインドネシアに留まり、独立軍の軍事参謀指揮官として活躍しました。吉住氏は一個師団の軍隊を率いてオランダ軍に対して結核で血を吐きながら山中を転戦して戦いましたが、昭和23年7月ゲデリ州セゴンの山中にて力つきて病没されました。
市来氏は昭和24年1月マランのサトウキビ畑でオランダ軍と攻防をくり返した時に、頭部を打ち抜かれて戦死されました。

スカルノ大統領はこの両名の死を思い出すたびに涙を流していたそうです。スカルノ大統領は市来、吉住のお二人の御霊も、多くの元日本軍将兵とともに、独立の英雄として、インドネシアの英雄墓地に慰霊し顕彰しました。しかし1958年、スカルノ大統領が来日されたときに、両名が靖国神社に祀られていないことを、青松寺の近くの日本料理店「醍醐」で西嶋茂忠氏から聞き、「西嶋さん、二人の英雄を忘れては、永遠に日本とインドネシアの友好はない、何とかしてほしい」と頼んだそうです。それが日本料理「醍醐」の近くにある青松寺に、スカルノ大統領特有の文字と文章で彫られ建碑されたのです。今でもインドネシアの大使が日本に赴任されますと、必ず青松寺に行き顕彰碑を参られるそうです。これは今日、青松寺の住職に聞きました。

引用:青松寺のスカルノ大統領の石碑についての疑問に答えます。宮司の論文 より

とのことで、これは行くしかない、と青松寺へ向かいました。

そして青松寺へ

青松寺は、東京都港区にあります(〒105-0002 東京都港区愛宕2丁目4−7)。
東京駅南口のバス停から、東急バスの「東98」に乗れば15分ほどで「慈恵会医大前」バス停に着きますが、その目の前にあります。

都心のビル群に囲まれて、静かにたたずんでいるようなお寺でした。

今回目的の石碑ですが、門をくぐってまっすぐ進むのではなく、右側になります。
途中、スカルノ大統領が訪れ、建碑のきっかけになった精進料理のお店「醍醐」へ続く道があり、その先にあります。

こんな感じで、精進料理「醍醐」への道もあります。
目的の石碑は、この写真の左後ろのほうへ進むとあります。

石碑に辿り着きました。

実際はかなり大きく、2メートルぐらいあるような大きさです。
「故 市来 吉住 両君の記念碑」というタイトルがあり、その下にスカルノ大統領の直筆の文章とその日本語訳が刻まれています。

市来龍夫君と
吉住留五郎君へ

独立は一民族の
ものならず
全人類のものなり

1958年2月15日
東京にて
スカルノ

1950年に独立してから8年後の1958年ですから、本当にそのときまで、2人の日本人を個別に名前で憶えていたということなんですね。
話は少しそれますが、デヴィ夫人がインドネシアに渡ったのが1959年。ちょうどこのころの出来事だったんですね。

そして、日本語の下には、スカルノ大統領直筆の文章が彫られています。

Kepada sdr. Ichiki Tatsuo
dan sdr. Yoshizumi Tomegoro.

Kemerdekaan bukanlah milik
suatu bangsa saja, tetapi
milik semua manusia.

Tokyo, 15 Februari 1958.
Soekarno.

引用:英語版のWikipediaより:https://en.wikipedia.org/wiki/Ichiki_Tatsuo

もう少し、詳しいお話を聞きたいと思い、お寺の住職さんに話を聞こうとしたのですが、
詳しいお話をご存じのS氏がご不在で、残念ながらお話うかがえませんでした。
毎年、1人か2人は、私のようにインドネシアとのエピソードを知ってこの青松寺を訪ねる人がいるそうです。

戦時中「お国のために」と死んでいった人もいれば、このように東南アジアのインドネシアの独立のために、現地のインドネシア人と一緒に志を持って生きた日本人がいたこと、そしてそんな人たちを忘れなかった大統領。私も志だけは常に持って生きていきたいと思います。

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